小川三知と黒沢ビル

日本の板硝子史研究家 加藤春秋氏に、ご自身の思い出とともに『小川三知と黒沢ビル』の解説文をご寄稿いただきました。
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  小川三知伝

ここに、「小川三知略伝」という文章がある。これは、小川三知の一人娘三保子さんが書かれた文で(註1)、これをもとに小川三知の略歴を述べてみることにする。小川三知は慶應3年(1867)静岡市裏一番町で、医師小川清齋の次男として誕生した。長男は早逝したため、家督を継ぐため医師の道を目指していたが、東京の一高在学中に東京藝術学校が開校したのを契機に、絵画の道に進むべく、一高を中退し明治23年(1890)【23才】東京藝術学校に入学する。学校では橋本雅邦に師事し、日本画の勉学にいそしんだ。明治27年(1894)【27才】卒業後、美術教師として、山梨県尋常中学校、神戸市兵庫師範学校へ赴任した。明治33年7月(1900年)【34才】神戸で、アメリカ婦人の推薦を受け、アメリカへ渡航し、シカゴ美術院に入学をはたした。 アメリカでは明治37年(1904)セントルイス万国博覧会日本政府工芸館の仕事をし、さらに、日本国農商務省海外実業練習生となり、輸出漆器のデザインの研究をし、報告を行っていた。

三知は、なぜアメリカに渡ったのだろう。三知が美術学校入学前に書いた論文(註2)では、日本画の衰退を憂いその優秀性を訴えており、改めて西洋画を学ぶ必要があったのだろうかと思わせるが、三知の好奇心と、日本画の優位性にゆるぎない自信ががあったからこそ、アメリカの地に踏み込めたのではないかと思う。 そして、ステンドグラスへの道は、シンシナチ市ロックウッド製陶所にいた日本人白山谷$3402太郎氏の紹介ではいったシンシナチ市アーティスティック・グラスペインティング会社からはじまった。その後、デイトン市デイトン美術硝子工場、コロンバス市フォン・ゲレヒテン美術硝子工場、ニューヨーク市ピッツバーグ板硝子会社、フィラデルフィア市、ピッツバーグ市ウィレットスタジオ、コロンバス市、セントルイス市カンジニール会社と硝子加工会社を渡り歩き、その間、ガラスペインティング、ガラスカッティング技法などを習得していった。 アメリカ滞在中には、職場の近くのカトリック寺院を訪れては、写生にいそしんでいた。三知は、その間、日本画をステンドグラスというひとつの技法・表現方法で生かせるという確信が持てたのではないか。

明治44年11月【45才】ステンドグラスの材料を携えて帰朝する。当時の日本では、この新しい技術を持った芸術家に注目が集まった。すぐさま日本建築学会の特別会員に推薦され、ステンドグラスについての講演を行っている。(註3) この講演では、ステンドグラスの基本的な製作技法をわかりやすく解説しているが、最後に、当時の世界のステンドグラスの様式の状況を実に的確に語っている。とくに、アメリカにおけるステンドグラスの状況ををオールド・イングリッシュ式(古英国式)とミュニック派・アメリカ式とに分類し、オールド・イングリッシュ式は、十二・三世紀に行われていたモザイク式を標準として、ペインティングよりも色の配合を重視する装飾的な様式、ミュニック派は十四・五世紀を標準とした写生的様式で、主にカトリックの寺院の窓の製作をしている。アメリカ式は人物の顔などペインティングでなければ表現できない部分以外は、色硝子固有の色彩を利用する様式で、ジョン・ラファージ、ルイス・コンフォート・ティファニーのオパールセントグラスの開発により、世界に普及していると分析している。三知は、ラファージとティファニーを大変評価している。この日本びいきの作家は、三知にとって大変心強い味方と映ったのだろう。

大正2年(1913)2月美術学校の同窓生であった板谷波山の勧めで、田端に工房「小川スツヂオ」と住居を構え、本格的にステンドグラス製作にはげみ、翌年には結婚もしている。当時、日本にはじめてステンドグラスをもたらした宇野沢辰雄はすでに仕事を退き、明治45年に死去したが、大正元年(1912)別府七郎・木内真太郎が「宇野沢組ステンドグラス製作所」を起こし、その後を継いでいた。両社は、お互いに硝子の融通したり、同一建物で分担して製作したりして、お互いに良好な関係で仕事をこなしていたようである。

「小川スツヂオ」の得意先には、中條精一郎、岡田信一郎、佐藤功一など、当時日本を代表する建築家が名を連ねていた。それは、その技術力による評価だけではなく、デザイン力に設計家が信頼を寄せたからなのであろう。そもそも、ステンドグラスの製作工程を考えると、ステンドグラスは、一般には窓硝子という建物の一部品という考えであり、まず施主あるいは、設計者が建物に設置することを計画して、その位置、形状は決めるが、つぎに、どのようなデザインにするかという問題に突き当たる。施主あるいは設計者がその図案を描くのならば、ステンドグラス製作者は、色硝子の選定を施主に承認してもらえばすぐに製作できる。しかし、ほとんどの設計者にステンドグラスの図案が書けるのかといえば、それは疑問である。図案を描くには、一般の絵画とちがって、硝子と硝子を$7E6Bぐ鉛線が必ず入るということを必ず考慮しなければならないし、色を作ることはできないので、既存の色硝子の選定という作業が必要になる。とすると、設計者はステンドグラス製作者に、見本帳あるいは、施工例を呈示させるか、施主がおよそのデザインの要望を出して、ステンドグラス製作者にデザインさせるということになる。または、ステンドグラス製作者にそのデザインを全てまかせてしまうということになる。 そういう工程から考えると、三知のステンドグラス製作は、自らデザインすることができる機会が数多くあったと想像出来るし、日本画の画力を存分に発揮できる状況にあったと言えるのだろう。三知の作品に花鳥画をモチーフにしたのが多いのは、三知自身の思い入れのデザインだったということがわかる。

およそ大正時代のすべてをステンドグラス製作にあて、ほぼ一人で取り仕切ってきたが、昭和3年(1928)10月24日腎臓炎により、三知死去、当年62才であった。その後妻生代が、残された仕事をこなしていたが、職人が去っていき昭和6年頃廃業したとされるが、帝國土木建築調査會『第四回 土木建築資料撰定表』昭和9年2月25日には、店名に「小川三樹」の名でステンドグラス製作会社の名簿が記載されている。

  黒沢ビル(小川眼科病院)

小川剣三郎は、小川清齊の三男として、静岡に生まれた。三知の直下の弟になる。跡継ぎたる三知が美術学校に転校したため、剣三郎は家督を継ぐべく、医学の道に進む。明治31年(1891)【28才】東京帝国大学医学部卒業。すぐ岐阜県立病院眼科部長として赴任。一時、実家の手伝いで3年ほど静岡に居住後、岡山医学専門学校教授に就任。明治37年(1904)8月にドイツベルリンへ留学。2年で帰国するが、帰国途中に米国に寄り、兄三知と会っていたようだ。岡山医専時代、『稿本日本眼科小史』など数々の著作をなし、眼科学会での地位を固めていた。明治45年(1912)5月【42才】岡山医専教授を辞し、入京し、神田和泉町に開業した。翌大正2年(1913)11月下谷池之端仲町に木造建物を新築し、「小川眼科病院」を新たに開業をする。ちょうど、兄三知が「小川スツヂオ」を開業したばかりで、おそらくいくつかの窓にはステンドグラスが嵌まっていただろうと思われる。大正12年(1923)9月1日関東大震災に見舞われ、家屋は全焼。本人は神田神明町に居を構え、すぐにバラックで開業した。昭和3年(1928)5月【58才】小川眼科病院の再建に着手し、翌昭和4年(1929)5月【59才】竣工した。そして、昭和8年(1933)12月25日脳溢血で、死去。当年63才であった。その後。黒沢潤三が小川眼科病院の院長になり、黒沢ビルとして、一部を除きほぼ現状のまま今に至っている。(註4)

  黒沢ビルのステンドグラス

小川三知は、昭和3年10月24日に死去しているから、小川眼科病院が建築中であったことがわかる。三知は、前年の朝鮮金剛山へのスケッチ旅行頃より体調を崩していたが、小川眼科病院のステンドグラスは、弟の為にどうしても完成させたい物件であっただろうし、デザインは自らの集大成として自由に描いただろうと思われる。まず正面玄関外側の扉のランマに嵌まっているステンドグラスから見てみよう。いわゆる「鶏鳴告暁」と題名がついているパネルである。このパネルは硝子すべてにオパールセントグラスを用いており外部からの光線が全て、この色硝子に反映させるようになっている。朝日とその光線、鶏が二羽と草で、一羽の鶏が鳴いている様を表現している。この鶏の胴体は茶のオパールセントグラスを用いており、また、朝日の光もうすい赤の入ったオパールセントグラスを使うなど、各所に硝子の選定に気を使っていることが窺われる。また、鉛線も、鳥の部分には、カマボコ型の細い鉛線を、その他は普通のフラットな幅広の鉛線を使うなど、鉛線の見え方に配慮がみられる。ハンダの技術も素晴らしいもので、細いカマボコの鉛線でも、すこしもはみ出ることなくなめらかなハンダ付けがなされている。玄関内側の扉のランマは、外側より一回り小さい大きさで、緑を基調とした、落ち着いた色合いになっている。モチーフは「バラ」。

玄関のすぐ左に四畳半ほどの広さの応接室がある。
まずその入口のランマに「梅」、
中にはいると、正面の両開き窓に「椿」、
正面入口面側のはめ殺し窓は、ランマに「流水にセキレイ」、
下は型ガラスが障子風に桟を配置して嵌まっている。
玄関側の尖頭型両開き窓には「立葵」が嵌まっている。「バラ」「椿」「立葵」は、日本画の手法にある余白を使い、「椿」では、縁をなくし、「バラ」「立葵」にはオパールセントグラスで細い縁をつけ、また、「梅」は太い緑の縁をつけているなど、さばざまなバリエーションをつけている。さらに「流水とセキレイ」では、琳派を思わせる流水の表現をしながら、その背景は大胆に茶のオパールセントグラスを使っている。

もうひとつ注目すべきは、この応接室の電気傘である。六角形で、各辺に草と動物・鳥を配置している。その動物も草の葉にまぎれて、よく見ないと動物と判定できない。さらに下部の六角形の硝子には、中央部にカットされた半球形の硝子を接着しそのまわりに裸婦と草、そして、十字のカットをちりばめている。これは、裸婦・草は明らかにエッチングによる彫刻技法であり、十字はカットグラスの技法である。

ロビーにもどると、地下に降りる階段の手前に、物置の扉がある。このデザインは一般的によく用いられているデザインだが、丸の中の花のところに、赤い硝子を入れているのは、何かアクセントとしておもしろい。地下におりる階段の途中に、四角のはめ殺し窓があり、中央の部分のみオパールセントグラスを使った、抽象模様になっている。その他、田辺千代によると(註5)、現存していないが、3階の窓には、「群鳩飛翔」というステンドグラスが嵌まっていたという。

下書棚扉エッチング硝子 地下には、幅が150㎝ほどの扉付き書棚がある。この4枚の硝子扉は4段になっており、その中央部のおよそ30㎝四方の硝子の中央に小川剣三郎とおもわれる顔のエッチングが施されている。その他にも抽象柄のエッチングがあるが、この顔は立体的に彫られており、サンドブラストによる彫刻としてもかなり高度なテクニックを駆使したエッチング硝子である。
応接室の電気傘のエッチングと、この書棚のエッチングは、すくなくとも、竣工当時のものとしていいだろうとおもわれる。というのも書棚の顔は、玄関に置かれている吉田三郎作の小川剣三郎の胸像の顔とそっくりである。しかし、疑問におもうことは、昭和3~4年当時、このようなエッチングがあったという作例が今のところ見出せないことである。大阪では、昭和6年4月荒巻長氏・生田徳次氏が日本硝子工業所を創業、東京では、昭和8年 石井久四郎が誠工社エッチンググラスを、大庭一晃が大庭エッチンググラスを創業したのがエッチングの嚆矢とされている(註6)。宇野澤組ステンドグラス製作所の『建築工芸叢誌』の広告を見てみると、「腐蝕模様應用鏡硝子販賣」のコピーがあり、このコピーは、第一期第4冊(明治45年5月25日)から第二期第2冊(大正3年3月15日)まで記載されていて、以後はないところを見ると、初期には弗化水素酸による、腐蝕模様の加工をしていたがその後やめたようである。しかしこれは、サンドブラスト加工をしない腐蝕加工だったと思われる。
それでは、小川三知は、このエッチング技法を硝子の加工に使っていたのだろうか。小川スツヂオの名刺(註7)には取扱品目として、ステインド硝子・ペインテツド硝子・硝子モザイク・モザイク式セードと印刷されており、エッチングとは書かれていない。黒沢ビルのエッチング硝子を製作するには、少なくとも、サンドブラスト機と弗化水素酸を扱う設備が必要である。ただひとつ気になるのは、田辺の「小川三知作品リスト」(註8)の中に唯一 花水館(旅館) 福島市飯坂町 小川清次郎 風景(エッチング)”と記載されている箇所があることである。これが「小川三知日記」に記載されていたのか、その他の文献に記載されているのか不明であるが、三知は、エッチングの設備も持っていたのかもしれない。とすると、三知は日本でのエッチング技術の創始ということになるのだが(註9)

私事にわたるが、筆者はおよそ60年前、母親につれられて、小川眼科病院に診察を受けに行った。その後数回は、ひとりで仲町通りを歩いて通い、初めてまん丸い縁の眼鏡をかけて帰ったとき、まるでまわりの景色がこんなにはっきりと見えるのかと感動した記憶がある。近所のおとなから、まるで学者さんみたいと評されたのが今でも記憶に残っている。その当時、仲町通りに建つ鉄筋3階建てのビルは、荘厳でしかも、実に権威ある病院に子供ごころに映ったが、残念ながらい玄関のステンドグラスは記憶にない。

註訳

(註1)藤森照信「明治・大正・昭和のステンドグラス」『瑠璃玻璃コレクション 日本のステンドグラス』2003年6月10日 P227~P229

(註2)小川三知「市島金治君の問に答ふ」『美術園』2 1889年3月5日(『日本近代思想体系』17 美術 1989年所収)、註1文献 P224~P226引用

(註3)小川三知「ステインド硝子に就て」「ステインドグラスに就て(承前完結)」『建築雑誌』303・304 1911年3月25日・4月25日

(註4)『實檢眼科雜誌』第17年 153・154 昭和9年4月25日・5月25日 の小川剣三郎追悼號による。

(註5)写真:増田彰久・文:田辺千代「旧小川眼科病院(現黒沢ビル)」『日本のステンドグラス 小川三知の世界』2008年4月20日 P117

(註6)大阪エッチンググラス株式会社ホームページより

(註7)田辺千代「日本のステンドグラスー宇野澤辰雄と小川三知ー」『民族藝術』28 2012年3月30日 P65 図6 小川三知の名刺

(註8)『日本のステンドグラス 小川三知の世界』2008年4月20日 「小川三知作品リスト」P210~P215

(註9)飯坂温泉の花水館は平成19年閉館している。明治30年に建てられた御殿の間という木造平屋の建物は保存されているようだが、
そこに、エッチングガラスが現存しているかは不明。

加藤春秋氏プロフィール
1948年台東区御徒町に生まれる。早稲田大学大学院文学研究科美術史専攻修士課程修了。専攻は日本彫刻史。その後家業の建築用板硝子工事業に従事。昭和の終わりにパソコンに出会い、ひたすら彫刻史の文献目録作成のため、キーボードをたたき続ける。平成15年ホームページ「春秋堂文庫」を立ち上げ、日本彫刻史文献目録の公開を始める。平成20年ブログ「春秋堂日録」を立ち上げ、最初は彫刻のことがメインだったが、平成23年硝子の歴史についての講演を依頼されてから、日本の板硝子史の研究を始め、日本各地のステンドグラス、色硝子、模様入りケシガラスの調査を行っている。